もっと大ホラ吹いてもいいのでは/というか、テクニカルに処理しちゃ


 やっ、、、、、、と、見ました。

 全体の印象としては面白かったス。、特に露骨な
残虐シーンもなしにああいうモヤモヤ感を持続させ
るというのは、ノレない人はノレないだろうけどハ
マる人はたまらなくハマるだろうなぁ。
 と、いうか、

 藤井美菜が綺麗すぎる。
あんな顔どーやって作んねん!

 ・・・・一番の関心は其処だったりしますが--;;;





【一応此処からネタばれ】

 問題?はやはりラストの5〜6分でしょう。
 パンフレットの高橋洋監督のインタヴューでは
「夢オチではない」と言ってて、「映画秘宝」の
片平なぎさインタヴューでは「パラレルワールド
という言葉を使っていたけど、でもどう見たって
ああいう流れの中であの展開では夢オチにしか見え
ないと思った、あれは。 最初、というか前半は、
実は脳に何かされてるのは藤井美菜の方なんぢゃ
ないかと思ってたんですよ。それでオチはそこ
なのかな、と。全ては脳をいじられてる藤井美菜
の幻想なのかな、と。
 でもそうぢゃないしなぁ。
 で、そこで、高橋洋監督の今までの作品を振り
返ってみたんだけど、作品に対しては真面目、と
いうか一本の映画の中で起こっていることに関し
ては嘘を付かない作風の人なんですよね。アング
ラ映画の人とも付き合いが多いらしい割には。
一本の映画の中で起こったことはその世界の中で
本当に起こっていること、として描いている。
 でも映画には、例えば『オーソン・ウェルズ
フェイク』とか松本人志の『大日本人』とか大林
宣彦の『北京の西瓜』とか、映画の中から観客に
向かって「これは映画というフィクション、と
いうかあくまで多数の人の手が入っている人工物
なんである」と言ってくるタイプの作品がある。
その事自体の意味、そこから向かおうとする方向
はまた色々と別々だけれども。
 で、今回の作品は、「人間の現在の知覚を超えた
その先に別のモノ、別の世界が存在する」という
ことを扱っている。のであるならば、映画の中に
起こることはその作品世界の中では絶対に起こって
いることであるという作風は果たして正しいのか
どうなのかというのがとても気になってきた訳です。
 一見、夢オチのようなあのラストもまだまだで、
画面上に監督本人が登場して観客を煙に巻くぐらい
のことをやってしまってもよかったんではないか
と思ったりしたのでした・・・・・あれ、でもそんな
ようなの前に何かあったっけか?